死別後を生きる

2015年春 夫と突然死に別れ…
ふたりの子どもとともに残された
わたしのココロ模様

今日で終わり

わたしが

悲しみのどん底にあったとき

してもらってうれしかったこと

こころの中で望んでいたけれど

してもらえなかったこと


その両方を

悲しみのどん底にある人に

わたしは

してあげられる人になろう。


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9回目の月命日を過ぎた頃から

急に泣くことが減りました。

自分でも不思議です。


今日は子どもの卒業式でした。

こうしてうれしいことがあっても、

主人がもういないという

現実を突きつけられて

これからもずっと

喜びと悲しみを

セットで味わっていかなければ

ならないんだろう…

そう思っていましたが、

実際はそうではありませんでした。


主人はわたしを通して、

わたしと同じ経験をしているのです。

おそらく子どもを通して、

子どもと同じ経験もしているのだと思います。


生きていた頃よりも

もっと近しい関係になったような

気がします。


会いたい気持ちに

今も変わりはないし、

この先もまた

淋しくて辛くて

悶え苦しむこともあるだろうけれど、

そんな時は


わたし達は

決して離れていない


ここに立ち返ろうと思います。


わたし達は

決して離れていない


なんの根拠もないけれど

これは

わたしの中で確信したこと。


胸の痛みは

一生痛いままでいい。

なぜならこの痛みは

わたしの人生に

主人という

素晴らしい存在があったという証だから。


わたしは今日

『悲嘆者』

という自分を

卒業しようと思います。


そして

主人との死別で得た

おおきな愛を

与える人になれるよう

自分をシフトさせて

いきたいと思います。

無題

目覚めるたびに

絶望する。

こうして始まる一日。


自分の死が

希望と化すほどの

真の絶望を経験すると

世の中の大騒ぎの多くが、

わたしにとっては

どうでもよいことだと気づく。


わたしは今、

波風のたたない

海の奥深くのような

静かなところにいる。

トンネルの向こう

どういうわけだか急に


悲しみが薄れたような

ズキズキしていた

こころの痛みが、

鈍い痛みに変わったような


主人との日々が

ずーっと前のことのように思えたり

そもそも

主人という存在があったことが

ほんとうだったのかとさえ感じることもあって


妙にこころの中が静かだ。



まだ少し冷たい朝の空気の中、

職場に歩いて向かいながら

ふと感じた。


主人を纏っているよう。



夢にもほとんど現れないし、

気配も感じない。

もうすっかり

あちらのひとになって

わたし達のことは

遠くの遠くから

見てるだけの存在になったのね

と腹もたったりしていたけれど、

そうじゃあなくて

こんなに近くにいたなんて!

あまりにも近すぎて

これじゃ気づかない。


主人と一緒にいるというより

ひとつであるという感じ。


9回目の月命日を過ぎて

たどりついた今ここ。