死別後を生きる

2015年春 夫と突然死に別れ…
ふたりの子どもとともに残された
わたしのココロ模様

堪える

『会いたい…』

という

素直であたたかなハートに

『もう二度と会えない』

という現実の刃が

容赦なく切りつける。


傷つくのがわかっていても

日に何度も

その刃に立ち向かってしまう。


会いたい

会いたい

会いたい…!


主人を想えば想うほど

ハートは痛手を被るけれど

それでも想ってしまう。


愛してるから。

天に向かって唾を吐く

神だか仏だかわからないけれど

そこに仲間入りした主人は、

わたし達を見ている。

でも、

守ってはない。

見てるだけ…


そもそも主人が死んだ時、

わたしも半分もっていかれたのに

それでもこうして生きているのは

―わたしの意思に反して―

生かされている

としか言いようがない。


命の決定権は神にあり、

わたしに与えられたのは

瞬間瞬間の選択権だけ。

わたしが何を選び

何を経験するのか。

そんなわたしの姿を

神はこころゆくまで眺めている。


主人はいつもそばにいてくれる


小さくてもいい。

そんな希望も与えられず

痛みと悲しみを

堪え忍ぶわたしの姿に満足ならば、

そうやって黙って見ていたらいい。


でも

これだけは知ってほしい。

こんなやり方じゃ

わたしは

自分の人生を愛せない。


びりびりのハートを抱えたまま

何事もなかったかのような仮面をつけて

人前で笑ってみせる

嘘つきのわたしのままの

人生なんていらない!

悲嘆

主人と死に別れてすぐの頃

わたしは

誰かにこの辛さをわかってほしかった。

慰め

助けてほしいと思っていた。



「言葉がない…」

多くの人が口にした。


こころの理を深く学んだ人は

わたしの話を静かに聞き、

おそらくわたしより

もっと辛い死別をされた方の

話をしてくれた。


一緒に涙し

わたしのこころに寄り添ってくれた

人との会話は、

間もなく

まるでわたしのことはなかったかのように

自分の日常の中に起こる

悩み事に変わった。


「お茶しましょう」

と声かけてくれた優しい人から

お茶の誘いはなく

「支えるから」

と言ってくれた人からは

以来、何の連絡もない。


年賀状だけの

おつきあいとなっていた人たちの幾人かは

ただただ静観の様子。



これはぜーんぶ愚痴。

わたしは

期待外れの

悼み方、慰め方に

勝手に傷ついた。

そもそも体験なくして

死別の辛さを

理解することなどできないということに

自分が気づいてから、

わたしは

わたしがこころの中で

勝手に責めていた人たちを

こころの中で勝手にゆるした。


彼らは

わからないだけなんだ。

そしてわたしは

彼らがわからないことが

悲しかっただけなんだ。



死別は悲しい。