死別後を生きる

2015年春 夫と突然死に別れ…
ふたりの子どもとともに残された
わたしのココロ模様

死別後を生きる3

どうやら

大嵐は過ぎ去ったようだ。


永遠の別れ

喪失


という経験でこころに負った

大きくて深い傷は、

少しずつ少しずつ

わたしの内側に沈みこみ、

わたしのハートを成すものの

一部となりつつあるように思う。


主人との死別後、

その傷ばかりを眺めて

ひながいちにち

うちひしがれていたのに、

ふと気がつけば

折りに触れ

あえてその傷を取り出して

大泣きしてみたり、

あるいは

遠く離れたところから

静かにそれを見つめて

じんわりと涙してみたり

と変化して…


こころにざわめく大波小波が

明らかに

数ヵ月前とはちがうことがわかる。



ほんとうは

まだまだ悲嘆にまみれていたい自分がいる。

でも

そんなわたしの意思にはおかまいなく

わたしの生命は

生命としての有り様(ありよう)で

今日まで生き続けている。


これもまた

抗いようのない力。


この力に従順になる勇気を持て と

ハートの傷に囁かれているような気がする

今日この頃。

美しい処へ

主人が亡くなる一年ほど前、

ふたりで

『天国に一番近い島』へ

短い旅行に行った。

空と海の青さと

風のそよぎを感じながら、

他愛のないおしゃべりをしたり

黙って手をつないで散歩して

きれいな景色をながめ

お腹がすいたら

一緒に何かを食べて

贅沢なゆっくりとした時を過ごした。



去年の春

明日はまた赴任先へ戻るという日。

ふたりで

公園に出かけた。

タンデム自転車に乗って

園内を散策し

色とりどりの花が咲き誇る

花畑にたどり着いた。


次の日。

主人はいつものように

家を出て最初の角を

少し半身を

こちらに引き戻しながら

大きく手をふって出かけて行った。


それが

主人を見た最後だった。



ふたりで

天国の下見に行ってたんだな。

受容2

とどのつまり

『〇〇ちゃん(主人愛称)』という

夫を喪った

『わたしの』孤独と淋しさを

ほんとうに理解できる人は

わたし以外の誰一人としていないということに

8ヶ月近くたった今頃気づき…


死別未経験者の

悪意のない無邪気なコトバに

いちいち傷つくことなく、

あるいは

優しさ故の

的外れな思いやりは

それはそれとして。

もちろん

あたたかいココロを

寄せてくれる人に感謝しつつ


誰にも何も期待しないで

この孤独と淋しさを

これからは

わたしの一部として生きていく。