死別後を生きる

2015年春 夫と突然死に別れ…
ふたりの子どもとともに残された
わたしのココロ模様

死別後を生きる19

主人が亡くなった年の年末。

2015年のあの日までは彼はここにいたのに、

来年の、これから先のどこにも主人はおらず、

そんな世界で生きていかなくてはならないことに

言葉では言い表せない思いを抱えて過ごした。


子どもの頃は「新年」を迎えることに粛々とした静かで清らかで明るい気持ちがあって、それは大人になってからもこころのどこかにあったのだけど、死別してからはそんな気持ちもすっかり失せてしまった。

わたしにとっては年末年始も普通の日と同じ。

「あけましておめでとう」という挨拶もしたくなくて、年賀状も早々にやめた。


わたしの一年の区切りは主人の亡くなった日。

毎年祥月命日を迎えるたびに、この一年も生きてしまったんだなと思う。

彼がますます遠くに行ってしまったように感じるが、わたしが少しずつ近づいているともいえるのだろうか。



今年は12月になってちょくちょく泣いてしまう。

日常の中の、ふとした主人の言葉や態度の記憶が蘇り、優しく大事にされていたことを思い出すのだ。


誰もが人生のどこかで愛する人と死に別れる。

だからわたしが特別だとは思っていない。

それでもやっぱり思う。

今はまだそばにいてほしかった。

もう少し体温の感じられる近さにいたかった。

冬にまつわる思い出と思うこと

先日から「冬のソナタ」をDVDで鑑賞している。

NHKで放送されていた当時、友人に勧められて見始め、わたしもすっかりドラマの世界にはまってしまった。

たしか夜11時頃から放映されていて、

テレビの前でクッションを抱えてひとりで見るのが好きだった。

主人とは一緒に見たくなかったし、主人も見たいと思ってもいなかっただろう。

だからさっさと床についていたのだろうが、

「(ドラマが)終わるまで帰ってきませんように」と思っていたことを思い出した。

そんな遅くまで仕事をしていることも普通にあった。


ドラマが終了したのが淋しくて、誕生日だかクリスマスのプレゼントにDVDセットをねだってみた。

全巻揃えると3万数千円。

結構な額だ。

でも、主人はわたしの願い通り贈ってくれた。

今 見ているのがそのDVD。



15〜16年前だっただろうか。

雪の積もった寒い日、主人がそこそこ重さのある電気ヒーターを買って歩いて持ち帰ってきた。

「エアコンもガスヒーターもあるのに、収納のことも考えずにそんなの買って」

とわたしは不満を漏らした。

それに対して主人も何か思うことを口にしたのかもしれないが、わたしの記憶にはない。


その電気ヒーターはちょっと暖まりたい時に重宝して、今年も活躍してくれている。


この話を子どもにしたら

「お父さん、お母さんが反省してくれて喜んでるよ」

と言われた。

わたしは反省してるのではなく

あんなこと言わなきゃよかったと後悔しているのでもなく、ただ主人の温かさと優しさがこころの中にじわじわ〜と蘇ったのだ。



彼はいつもわたしの願いを叶え、どんなわたしも否定せず黙って受け容れてくれていた。


冬のソナタでは、主人公は亡くなったと思っていた愛する人と再び巡り会えた。

生きていれば…生きてさえいればいつか会えるかもしれない。

でも、わたしの主人は間違いなく死んだ。

だからもう会えない。

今年の冬も、彼が残してくれたぬくもりにすがって生きていく。


涙がこぼれる。

最後の願い

夢から覚めたい


もうこれ以上寄り道をせず

真っすぐに還りたい


ドアの向こうに飛び込む勇気がほしい


たった今 今 今 !